北原白秋の庵跡
北原白秋
神社の境内では子供達が走り廻り、駄菓子屋で買ったソースせんべいをかじりながら、ススキの穂が揺れる河川敷の散歩が楽しめる。そんな東京の一番東にある町です。昭和30年代と平成が同居した町、それが小岩・江戸川です。10分も歩けば、あの寅さんのふるさと柴又です。
詩人北原白秋は北小岩の町に大正5年~1年間住んでいました。この庵を「紫烟草舎」と名付けて数多くの名詩が生まれました。現在は市川市の里見公園内に移築され当時のまま保存されています。
小岩はどこにあるのでせう
ラッシュ時でもJR東京駅まで30分程度の東京の下町。それが小岩・江戸川です。
商店会もいっぱい。公園もいっぱい。緑もいっぱい。 河川敷に広がる風景は絶景!
「小岩」の名前の由来
江戸川河川敷
私たちが生活をしている小岩の名称は、東大寺正倉院の書籍から端を発しています。現在、奈良の正倉院に残る多数の宝物と共に「正倉院文書」というものがあります。その中でも特に江戸川区に関係を持つと推定されている、「下総国葛飾郡大嶋郷」(しもうさのくにかつしかぐんおおしまごう)養老五年(721年)の戸籍は同じく現存しているほかの戸籍よりも量も多くまた、良く整っているので、古代の家族の成因や構成を解明する上で貴重な資料として、各方面の学者によって研究が続けられており成果もおいおい上がりつつあります。
この、「下総国葛飾郡大嶋郷」の戸籍をみると、『甲和里(こうわのさと)』『仲村里(なかむらのさと)』『嶋俣里(しままたのさと)』という三つの里が記載されています。 このうち、現在の柴又が当時の『嶋俣』であろうということについては、諸説の推定するところでありました。さらに、この地域の柴又八幡神社社殿背後が古墳跡、であり、その内部構造や出土した副葬品の種類などから考察して、この地域における当時の上級者の墳墓であろうと推察されます。又、大嶋郡嶋俣里の戸籍をみるとそこには郷内最有力者である、孔王部(あなほべ)を名のる一族が記載されていて、大嶋郡に住む人々の九割が孔王部氏でしかも郷戸長となっています。この孔王部は五世紀頃の安康天皇の御名代部民であるから、柴又八幡神社の古墳は孔王部氏祖先を葬ったものと考えられます。
『仲村里』については葛飾区新宿三丁目、または水元小合町の中村をこれにあてる説もあるが現段階では未確定といえます。 『甲和里』の遺地は以前から現在の江戸川区小岩の地をその遺地と考えていた人もいた、その理由は前に述べた『甲和里』『仲村里』『嶋俣里』と言う隣接感と甲和里の発音が小岩にやや似通っているのが原因かと思われます。
天祖神社
養老五年の戸籍をみると甲和の命名は、和銅六年(713年)の勅命により、諸国の郡郷の名を改め、好字二文字をもって当てた地名であり、一般には甲和が後に転化して「こいわ」になり、小岩に当てられるようになったといわれています。
しかし、甲和が当時の原音でどの様に発音されていたかが問題です。一応に「甲」は「か」と呼ばれていたので「甲和」は「かわ」と呼んでいたことになるし、また、「甲」を現在のように「こう」或いは「かう」を発音していたとすると、当時のアイウエオの五母音が日々相通じて用いられて、特にイウエの相通が多いとされています。
例、(魚は「イオ」であり「ウオ」でした)この事から、この「甲和」の地名の原音は「コイワ」であって、それを「甲和」の二文字に当て、後に「小岩」と当てられるようになったと考えることもできます。
『甲和里』は下総国府台を望み、北に『嶋俣里』の炊煙を望見出来た地点で江戸川の自然堤防洲上の一角であって、後に「上小岩」「下小岩」に分離しました。
前述は江戸川区の歴史的資料より参照しました。
※この資料は、小岩柴又通り会の間中さんよりご提供いただきました。ご協力感謝いたします。