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ようこそ、上小岩遺跡へアクセスありがとうございます。
古代ロマンへご案内いたします。
上小岩遺跡は江戸川区内最古で最大規模を持つ遺跡であり、弥生時代後期には人が住み始めていた事が確認されました。又古墳時代には大きな集落があり、出土品等から遠く東海地方とも交流していた事がわかっています。
それ以降も上小岩では中世には荘園、近世には新田が開かれ人々が暮らし続けていました。 |
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上小岩遺跡は古墳時代前期(3世紀)の低地遺跡で江戸川最下流に集落があった可能性大です。3,4mの高台で数10戸の住居があると推定しています。
※遺跡の場所は大昔現在の荒川と江戸川の沖積地である対岸の国府台からみると海岸線は上小岩遺跡の近くあたり?
右の地図はクリックすると拡大できます。 |
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上小岩遺跡からは古墳時代の前期(今から約1600年前)の人々が使用した土器が出土しています。 |
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1 壺型土器 |
2 かめ型土器 |
3 杯型土器 |
4 結合型器台 |
5 小型器台 |
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1.食料等を貯蔵するための壺 |
2.煮たり沸かしたりに使用したかめ型土器 |
4・5.祭等もてなしに使用した土器 |
3・4.この土器は南関東では出土例が少なく上小岩遺跡のナゾとされています。 |
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杯 古墳時代後期 |
杯 古墳時代後期 |
器台・土師器
古墳時代前期 |
杯 古墳時代後期 |
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※採集遺物は30,000点にのぼり、弥生中期の物は少なく弥生後期、古墳時代前期のものが最も多く採集されています。 |
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大昔の上小岩の人々(想像図) |
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(里での人々) |
(海での人々) |
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稲作 |
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採集された土器等からモミからの付いた器も発見されています。 |
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漁業 |
→ |
S型口縁台付かめ型土器→東海地方多く出土
土錘(どすい)→網漁に使うおもり→漁労生活を営んでいた |
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この出土器から上小岩の先住人は東海地方との交流を持っていた事をうかがわせる。 |
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私達の町、北小岩は今から約1200年前(奈良時代)の戸籍から甲和里という地名は上小岩遺跡周辺だったのではないかと考えられます。
奈良、東大寺正倉院文書の養老戸籍(721年)の中に「下総国葛飾郡大嶋郷」という地名から3つの集落が登場します。 |
正倉院 正倉 |
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甲和里(こわり) |
= |
44世帯 |
− |
454人 |
現在の地名?:小岩 |
嶋俣里(しままたり) |
= |
42世帯 |
− |
370人 |
現在の地名?:柴又 |
仲村里(なかむらり) |
= |
44世帯 |
− |
367人 |
現在の地名?:水元小合町 |
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130世帯 |
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1191人 |
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当時のムラオサ(村長さん)
孔王部志巳夫(あなほべしこぶ)
又、今から約600年前応永5年(1397)の「下総国葛西御厨注文」という文書には上小岩、下小岩の地名が記されています。 |
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土師器・鬼高式土器 瓶・西暦600年代後半 |
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須恵器 杯の蓋 古墳時代から奈良時代 |
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土師器は素焼きの焼き物で庶民の日常生活用品でした。かめは煮炊きのための調理用具。 |
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須恵器は古墳時代に大陸から製法が伝わった灰色で硬質の焼き物で杯は皿状の容器です。 |
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